平清盛の終焉推定地を訪れて、石碑を見てきました。
石碑の写真は、「平清盛の終焉推定地(高倉天皇誕生地)」に掲載しています。
◆平清盛について◆
平清盛は、平安時代末期の武将です。
平忠盛の長男として生まれ、後に平氏棟梁となりました。
保元の乱や平治の乱で勝利して、平氏の地位を高めます。
その後、武士としては初めて政大臣に就任。
日本初の武家政権を打ち立てたました。
しかし、その事が後白河法皇と対立を生みます。
平家一族は壇ノ浦の戦いで滅亡しますが、その平氏滅亡の4年前、清盛は病でこの世を去りました。
-終-
続いては、高倉天皇です。
◆高倉天皇について◆
平安時代末期の第80代天皇です。
平清盛の娘である徳子を中宮としました。
治承4年、安徳天皇に譲位。
その翌年、亡くなりました。
笛の名手であった事が伝わっています。
-終-
今回は、そんな2人の関する石碑を紹介します。
何かの参考になれば、幸いです。
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平清盛の終焉推定地(高倉天皇誕生地)の見所
平清盛の終焉推定地(高倉天皇誕生地)
京都市内を歩く時、グーグルマップを利用します。
グーグルマップの良い所は、石碑の情報も載っている事です。
平清盛の終焉推定地の石碑も、グーグルマップを見ていた時に発見しました。
平清盛の終焉推定地は、京都市下京区屋形町にあります。
JR京都駅から、徒歩10分ほどの場所です。
平清盛の終焉推定地の石碑が、こちらになります。
そして、この場所は、高倉天皇誕生地です。
平清盛の終焉の場所は、「吾妻鏡」に記載があります。
「吾妻鏡」によると、平清盛の終焉の場所は「九条河原口の盛国が家」。
この盛国が家は、清盛の家司・平盛国亭ではないかと言われています。
平盛国亭は、師元朝臣記によれば、八条河原にあったと記されています。
鎌倉時代の「吾妻鏡」では、九条河原。
平安時代の「師元朝臣記」では、八条河原。
どちらの記述が、正しいのでしょうか。
「師元朝臣記」の方が、同時代なので、史料価値が高いとされています。
その事から、かつて平安京八条大路と鴨川の交点近くのこの場所が、平清盛の終焉推定地とされました。
ちなみに、平盛国亭は、憲仁親王が生まれた場所です。
憲仁親王は、後の高倉天皇です。
そのため、この場所は、高倉天皇誕生地でもあります。
石碑以外に、特に何かある訳ではありません。
この石碑のためだけに、わざわざ訪れる価値があるか疑問です。
しかし、京都駅周辺を散策した時にでも、立ち寄ってみて下さい。
話のネタには、なるかもしれませんよ。
平清盛の終焉推定地へのアクセス
平清盛の終焉推定地への行き方です。
京都駅から、東へ徒歩約10分。
(周辺地図)