京都旅行のオススメ

京都や他府県の旅行と観光関連の事を書いているブログです。おすすめではない情報もチラホラ。

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葵祭を観覧。2018年の行列の様子。

葵祭を、観覧しました。
いつもは、下鴨神社の糺の森で葵祭の行列を見ます。

糺の森には、現代的な建物がないからです。
そのため、雅な雰囲気を味わいながら行列を見る事が出来ます。

しかし、平成30年(2018)は、別の場所から見る事にしました。

◆葵祭についての簡単な説明◆

葵祭は、上賀茂神社と下鴨神社の例祭です。
京都三大祭りの1つに数えられています。

優雅が王朝風俗の行列が、京都の町を歩きます。
行列コースは、京都御所→下鴨神社→上賀茂神社です。

始まりは、6世紀半ばになります。
この時期、飢饉が起こりました。

飢饉を終わらすために、欽明天皇が祭礼を行います。
そうすると、五穀が豊かに実り、飢饉は去りました。

この事が、葵祭の始まりです。
応仁の乱の後、約200年行列が中止されました。

しかし、現在は、王朝の伝統を守りつつ毎年開催されています。
祇園祭・時代祭とともに、愛されている京都の行事です。

※葵祭のオススメ撮影場所は、こちらにも掲載しています。
葵祭。観覧席や撮影場所と混雑状況。

-終-

今回は、そんな葵祭の行列の様子(2018)を紹介します。
何かの参考になれば、幸いです。

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剣神社の御朱印と御朱印帳。

剣神社では、御朱印を授与しています。
御朱印の数は、1種類です。

剣神社という名の神社は、全国にいくつかあります。
今回紹介するのは、京都にある剣神社です。

それでは、オリジナルの御朱印帳はあるのでしょうか?
私が調べた限りでは、発見出来ませんでした。

御朱印が頂ける場所は、社務所です。
鳥居をくぐった右隣の場所にあります。

今回は、剣神社の御朱印を紹介します。
何かの役に立てば幸いです。

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楊貴妃観音堂。効果とご利益は美人と縁結び。

泉涌寺の境内に、楊貴妃観音堂があります。
楊貴妃観音像が祀られており、美人と縁結びに効果があると人気です。

◆泉涌寺についての簡単な説明◆

泉涌寺は、京都市東山区泉涌寺にあります。
真言宗泉涌寺派総本山のお寺です。

泉涌寺は、皇室との関連が深いお寺です。
そのため、御寺(みてら)とも呼ばれています。

始まりは、天長年間です。
空海がこの場所に草案を結びます。

そして、法輪寺としました。
その後、建保6年(1218)に月輪大師が造営しました。

その時に、清泉が涌き出ます。
この事により、泉涌寺と改められました。

境内には、楊貴妃観音堂が建っています。
楊貴妃観音像が祀られているお堂です。

美人と縁結びにご利益があると、評判です。
そのご利益を目当てに、女性が多く訪れます。

-終-

今回は、そんな泉涌寺の楊貴妃観音を紹介します。
何かの参考になれば、幸いです。

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中小路宗城大人と中小路宗康大人の像。

長岡天満宮は、霧島ツツジの名所です。
その長岡天満宮に、ある像が置かれています。

中小路宗城大人と中小路宗康大人の像です。

◆長岡天満宮についての簡単な説明◆

長岡天満宮は、京都府長岡京市にあります。
菅原道真を祀っている神社です。

なぜ、ここに創られる事になったのでしょう。
次の様な話が、伝わっています。

菅原道真が、大宰府へ左遷された時の事です。
在原業平らと楽しんだこの地に立ち寄りました。

「我が魂長くこの地にとどまるべし」。
このように、菅原道真は名残を惜しみます。

その縁で、道真自作の木造を祀る事になりました。
この事が、長岡天満宮の始まりです。

長岡天満宮と言えば、京都の霧島ツツジの名所。
4月中下旬に見頃を迎え、多くの参拝者が霧島ツツジを見に来ます。

また、紅葉が美しい事でも知られています。
そして、新緑もまた美しいです。

-終-

今回は、そんな長岡天満宮の中小路宗城大人と中小路宗康大人の像を紹介します。
何かの参考になれば、幸いです。

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藤井右門宅跡の石標。

京都市内を歩いていた時の事です。
藤井右門宅跡の石標を発見しました。

◆藤井右門についての簡単な説明◆

藤井直明は、江戸江戸時代中期の儒学者です。
初名は吉太郎、通称は右門です。

播州赤穂藩の遺臣・藤井又左衛門の子です。
赤穂取り潰し後、越中国射水で生まれました。

享保20年(1735)郷里を出奔して、上洛します。
そして、竹内式部らの交わりました。

その後、皇学所教授になります。
教授になると、公家に尊王論を説いていきました。

しかし、尊王論者弾圧の「宝暦事件」が起こります。
この事件により京を離れ、江戸へと避難しました。

そして、山縣大弐のもと、塾で尊王論を教えてます。
しかし、幕府により処刑されていまいました。

世間で知られる「明和事件」です。
藤井直明、享年四十歳。

それから、約100年、尊王論は多くの志士の心をとらえる事になります。
そして、明治維新の思想へと続きました。

-終-

今回は、そんな藤井右門宅跡の石碑を紹介します。
何かの参考になれば、幸いです。

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