三条大橋を渡る時に、擬宝珠の刀傷跡を見てきました。
その時の写真は、「三条大橋の擬宝珠の刀傷跡」に掲載しています。
◆三条大橋について◆
三条大橋は、鴨川に架かっている橋です。
橋が架けられた年代は、明らかではありません。
しかし、室町時代前期には、橋は架けられていました。
その頃の橋は、とても簡素な構造の橋だったそうです。
三条大橋が、本格的な橋となったのは天正18年の事となります。
豊臣秀吉の命により、奉行増田長盛が橋の大改造を行いました。
現在の橋の長さは74m、幅は15.5m。
擬宝珠は、天正と昭和のものが混用されています。
-終-
そんな三条大橋の擬宝珠に残る刀傷跡。
この刀傷は、池田屋騒動の時についたそうです。
今回は、三条大橋の擬宝珠の刀傷跡を紹介します。
何かの参考になれば、幸いです。
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三条大橋の擬宝珠の刀傷跡の見所
三条大橋の擬宝珠の刀傷跡
京都市内には、幕末時代の爪痕が数多く残っています。
しかし、意識しないと発見できないものもあります。
三条大橋の擬宝珠の刀傷跡も、その中の1つです。
三条大橋の西北側には、このような案内板が立っています。
三条大橋の西側、二つ目の南北の擬宝珠に刀傷がある。
そう書かれている案内板です。
また、この刀傷は、池田屋騒動の時につけられたものではとも書かれています。
◆池田屋騒動について◆
池田屋騒動は、幕末に起こった襲撃事件です。
京都三条木屋町にある旅館・池田屋。
その旅館に、長州藩・土佐藩の尊王攘夷派の志士が潜伏していました。
そこに、京都の治安維持を担っていた新選組が襲撃。
新選組が、潜伏していた尊王攘夷派を討ち取った事件です。
この事件により、明治維新が1年遅れたとも言われています。
別名は、池田屋事件・池田屋事変。
-終-
まずは、三条大橋の西北側から二つ目の擬宝珠を見る事にしました。
三条大橋の西北側から二つ目の擬宝珠です。
真ん中の黒くなった所が、刀傷だと思います。
その場所を、アップにしました。
これを見て刀傷だと分かる人は、何人いるのでしょうか。
案内板がなければ、私は見向きもしなかったと思います。
次は、三条大橋の南側に移動。
同じく西から二つ目の擬宝珠を見ました。
三条大橋の西南側から二つ目の擬宝珠です。
真ん中の黒くなっている部分に、刀傷らしきものがあります。
これです。
先ほども言いましたが、これは意識しないと分かりません。
初めに発見した人は、よく見つけたなと思います。
もし三条大橋を渡る機会あれば、ちらりと探してみて下さいね。
三条大橋へのアクセス
三条大橋への行き方です。
京阪三条駅で下車。
徒歩すぐ。
(周辺地図)